浦上天主堂


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住所 長崎市本尾町1-79
営業時間 9:00~17:00
定休日 月曜日
利用料金 無料
駐車場情報 なし

慶応元年(1865)に大浦天主堂が完成し、ここ浦上の潜伏キリシタンはプチジャン神父に「私どももあなたと同じ信仰をもつ者です」と打ち明け「潜伏信徒発見」という歴史的な事件となりました。しかし、明治政府も当初は江戸幕府と同様にキリスト教禁制を維持していました。
それで、キリスト教の信者であると告白した浦上の信徒3400人ばかりは流罪となってしまいました。この事件は外交問題となり明治政府は明治6年(1873)にキリシタン禁制を解くことになりました。
 信仰の自由を得た浦上の信者たちの33年に及ぶ奉仕で大正15年に立派な天主堂が完成しました。赤レンガ造りのロマネスク式の教会は当時東洋一と言われていましたが、昭和20年の原爆で、教会は廃墟となり、教会に来ていた信徒約30数人が全員死亡し、12,000人の信徒のうち8,500人が被爆死したといわれています。
現在の天主堂は昭和34年、往時のものと同じロマネスク式で再建され、昭和55年(1980)に改築され、現在に至っています。天主堂に上る道の両側には原爆で焼かれた天使像が並んでいます。
 長崎の原爆は1945年8月9日午前11時2分に長崎の平和公園の南にある爆心地公園上空約500mで炸裂しました。この浦上天主堂から500~600m離れた地点の上空です。浦上天主堂の脇にある原爆で焼かれた天使像を見ると斜め上から熱線を受けた事がよく分かります。
 原爆によって吹き飛ばされた天主堂の鐘楼(アンジェラスの鐘)は天主堂の北方約30mの地点に落下したものが現在でも現地で保存されています。
そして、2つあったもう片方のアンジェラスの鐘は原爆の爆風に耐え今の浦上天主堂でも使用され時を告げています。


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